浄善寺の門前には「親鸞聖人御旧跡」の石碑が建立する地があります。
この地は、西暦1207(承元元)年の「承元の法難」で京都より越後 国府(上越市国府)に御流罪となられた親鸞聖人が、旅の途中に一夜の宿をとられ、お念仏のみ教えを説かれた地として伝えられます。
現在はそのお姿を偲び、親鸞聖人の御像が建立されております。
この御像は昭和三十二年に「本願寺第二十三代宗主勝如上人御巡教」を記念に建立された銅像で、寄附してくださったのは廣瀬精一という方でした。
この廣瀬精一さんは、明治二十八年に三重県桑名市に生まれ、大阪市において 「鉄商廣瀬商店」を創立し、合併の後には「ヰゲタ鋼管株式会社社長」、「住友物産株式会社取締役」などを歴任された産業界の方です。
またその一方で、アメリカのニューヨーク本願寺へ親鸞聖人御像を寄附されるのをはじめ、国内外の仏教発展に尽くされた念仏者としても有名な方であります。 (初めは広島県に建立されましたが、戦時中に御像が原子爆弾の被害を受け、その後に平和の願いをこめてニューヨーク本願寺へ移されたそうです)
著書の『渋柿の味』の中では、順風満帆の人生を送る中、たった二十三日の患いで幼い息子さんと別れることになり、その事をご縁に浄土真宗のみ教えを真剣に、自分自身の問題として聞くようになられたと語られます。
その後、良き師との出遇いをへてみ教えを喜ぶようになり、その喜びから仏教の発展を願われ、世界各地に仏像、銅像を寄附されたそうです。
親鸞聖人とともに、阿弥陀様のみ教えを喜ばれた廣瀬精一さんの想いが偲ばれます。
・・・子供の時の思い出であるが、他家からヨウカンをもらったことがあった。
私が一番先に手を出すと、母は「まず仏さま」次には「おとうさん」と言って、われわれをたしなめられたことがあった。
なつかしくまた尊い思い出である。
・・・母も病篤きとき、「苦しいですか」と問えば、頭をかすかに横に振り、また「ありがたいですね」と申せば、頭を縦にうなずかれた。
そして静かに往生の素懐(そかい)をとげられたのであった。
このように私の家にはありがたいことには、先祖より家全体に仏恩がしみ込んでいてくださっているのではないかと、ひそかに喜んでいる。
廣瀬精一著『渋柿の味』(創元社) P204より