法名 釈 順成
浄土真宗本願寺派(本願寺)に属する僧
昭和56年 この世に生を授かる
平成 9年 得度
平成16年 龍谷大学文学部真宗学科卒
平成17年 中央仏教学院本科卒業
平成18年 勤式指導所研究生課程修了
平成18年 住職課程修了
平成18年 住職継職
因縁があってこの世に生を授かり、
因縁があってこのお寺の住職を務めさせていただいている者です。
幼い頃より身近にお寺がある環境で育ちましたが、特に仏教を聞くことはありませんでした。
むしろ、宗教を語る犯罪が起こるたびに、友人にからかわれるものですから、お寺という存在に対しては、良い印象を持つことはありませんでした。
もちろん、多くの皆さまが思う、「宗教って気持ち悪い!」という感情を、私も持っておりました。
それでも、仏教は私をお育て下さったのでしょう、有縁の皆さまのお導きもあり、
今は聞くことを喜ぶ身とならせていただき、
私の生死を明るくあたたかく包んで下さる仏教の存在を心強く感じます。
私が仏教ではありませんので、私が有縁の皆様を教え導くという事はありませんが、このサイトを通して仏教が世間に広がり、
仏縁が恵まれるような事があれば幸いです。
お寺の本堂内には仏教書がおいてありますので、どなたもご自由にお参りください。
「信じる」ことを必要とする宗教もありますが、
仏教は「聞き学ぶ」ものとして教わります。
お寺や葬儀や法事で、お経をいただき、
その心を、聞き学ぶということ。
人は「一寸先は闇」と言うけれど、
おさとりのお釈迦さまと、阿弥陀さまに導かれ、
人生に、広く深い世界を見出された、親鸞聖人は、
「一寸先は光」と教えて下さいました。 学生時代の事です。
ともに浄土真宗のみ教えを学ぶ友人から、
こんな内容の年賀状をいただいた事があります。
「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり(浄土和讃)
旧年中は 大変お世話になりました。
浄土の仏となりし父に 見守られながら
新年を 迎えさせていただきました。
本年も ご教導の程 宜しくお願い申し上げます。合掌」
生死を超える、仏教の明るいお導きを、感じました。
師いわく。
「人生いろいろ」というけれど、
仏教を聞く人生か、
聞かない人生かの、
2つしかないですよ。 「観光」とは、「国の光を観る」
という意味だそうです。
いままで各地で、
何を見ていただろうか。 私を育む、存在に対して、
感謝し、敬いをもって、「お」を付ける。
「お水」「お疲れさま」「お父さん」「お母さん」・・・。
英語にしますと、
「おwater」「おphysical」「おpapa」[おmama」
となりますでしょうか。 もし、あなたの大切な人が、
病気か何かの縁で、
横たわり、息を引き取ろうとされる時に、
「このあと、私どうなるの・・・」
と、たずねてこられたとしたら、
あなたは、何と答えますか?
「私は無宗教」と仰る人も、
葬儀には、私服ではなく、
スーツと黒のネクタイで、お参りされるでしょう。
そこに、気付かぬとも、
宗教があるように思います。 「便利になって忙しいとは
何かおかしいではないですか。」
という先哲の言葉。 問いがなければ、答えを聞いていても響かない。 いつから、葬儀に
西洋の服=スーツ=乗馬服を
着て行かれるように、なったのでしょうか。 焼香の意味とは。 何事にも、深い意味があることを、教えて下さる仏教。
「ああ本当だなあ」と、聞いて、うなずかされるばかり。
何かを、「信じなければいけない」、という話ではありません。 仏法を聞く人生か、聞かない人生か。 さとりの世界、すなわち仏教が説かれた、「お経」と、
一億円が当たるかもしれない、「ジャンボ宝くじ」の
どちらかを、いただけるとすれば、
『「宝くじ」の方がほしい』と、私は思ってしまいます。
欲多き、私の姿と気付かされますが、
お経を聞き学べば、
仏教は、そんな欲多き私と、とっくに見抜いておられます。
それゆえの、導きがあるのですから、有難いことだと感じます。 救いの因果を聞いて、恩を知る。
御恩報謝の、日暮しとなる。 仏の願いはそのまま 私の願いはわがまま 「今日も明るいお浄土へと向かう一日を過ごす」と仰る先生 「無宗教」と「宗教に無知」は違うもの 愛と正義を語る戦争 「戦争映画には、子を生み育てた母親の目線がない」
と仰った先輩僧侶の言葉に、うなずかされる 『宗教がわかれば世界が見える』池上彰さん 上九一色村。宗教を語る団体により、
問いや学びをうばう洗脳が行なわれた場所。
これは怖い事ですが。
一昨日の夕飯の内容を覚えていない私に・・・
行った事もない「上九一色村」を覚えさせる
各メディアの洗脳はもっと怖いように思います。 心が変われば景色が変わる 仏教を学ぶと、世界が広がるように思います。
例えば、あなたが存在するということは、
10000年前のご先祖がおられたのだ、というように。
また、あなたのいのちは、体重計では計ることのできない、
地球よりも重い、いのちであるというように。 失敗が足りないから、
失敗をしてしまうのだと思うと、
失敗が怖くなくなってきました。 転んでも転んでも大地の上。『本願寺新報』 願うというより、
私の幸せを願って下さっているのが仏教だと教わります。 「かわいいリボンをつけた女の子」
リボンがかわいいのか、女の子がかわいいのか。
こういった思い込みは、悩みにもつながり、
それを打ち破る力が、仏教にはあると教わります。
学ぶところに世界は広く。視野も広く。広大無辺。 正論を言う人が増えると、責められる人も多くなるのでしょうか。
としますと、人を責める正論に、どのような正しさがあるのでしょう。 告別式と、葬儀の大きな違いといえば。
告別式は別れを告げる場で、
葬儀は、お経を通して「ありがとうございました」、
「またいつかお会いいたしましょうね」と、
言える世界を教わる場といえます。 「宗教」という言葉を聞くと、
次に思い浮かべる言葉が「洗脳」であったり。
なんとなく怪しさを感じてしまいます。
原因としては、宗教を語る色々な事件が、あるからだと思います。
しかし「仏教」という言葉を聞くと、
私の場合は楽しさを感じます。
なぜなら、一輪の花からも宇宙を見ていくような、広い世界観を学べるからです。
ある九十代のご門徒の女性は「楽しいというか、有りがたい」と仰いました。
理由は「仏様の願いに包まれているから」だそうです。
さすがはお聴聞の達人です。
思わず頭が下がりました。 「宗教を信じない」ゆえに「私は無宗教」。
良く聞く言葉であり、多くの方々が仰るのではないでしょうか。
世間には宗教を語っての犯罪が多くあるようですから、
それぐらいの宗教感を持っていた方がいいのかも知れません。
しかし、そう仰る方も、なぜ宗教は
「信じるもの」だと思われているのでしょうか。
と言いますのは、そう仰るところにもすでに、
宗教の力がおよんでいるように思うからです。
そうなりますと「私は無宗教」と仰る方も
「私は宗教を知らない」と仰った方が正しいのではないでしょうか。
日常生活の中には、他にも「玄関」「火葬」「20〇〇年の西暦」・・・と、
宗教的な言葉やものごとは存在しています。
他にもまだまだありそうです。
みなさんは、いくつぐらい、あげられますでしょうか。 「寺小屋」という存在からも、
仏教は「信じる」というより、「学ぶ」という言葉の方が
当てはまるように思います。
「仏教を信じる」というより、「仏教に学ぶ」という事です。
ご縁があって学んでみましたら、とても奥が深いものでした。 最近お寺の近くを通る、国道8号線の、車の通行量が
多くなったように思います。
大型トラックも、普通自動車も、列をなして走っています。
おそらく、ナンバーなどから推測しますと、
東日本大震災の被災地へと向かう車が、多いのだと思います。
言いかえれば、助けを求める心に、助けたいという心が、大きな動きとなって、
表れている光景のように思います。
出来る限り、応援させていただきたいと思います。 立場上、葬儀に参ることが多くあります。
その葬儀の場で、よく聞く言葉の一つが
「永遠のお別れです」という言葉です。
それに伴い「さよなら」「ばいばい」という言葉も耳にします。
どれも人生を終えた方へ、別れを告げる、告別式的な表現です。
しかし、どうでしょう。
自分もいつか、人生を終える時が来るというならば
「お疲れ様でした」「お世話になりました」「有難うございました」
「しばしのお別れです」「またお会いしましょうね」
という言葉が多く語られても、いいのではないでしょうか。
その後のご法事やお墓参りにも響く、大事な事でもあります。
お経を通して気付かされたことです。 先日、知り合いの小学生(男の子)と話をしている時に
私が「最近体調を壊してしまって・・・」と言いましたら
「体調は、崩すでしょ」とその男の子に注意されてしまいました。
調べてみればその通り。
「腹を壊す」「体調を崩す」
もちろん多くの方が御存じの事だと思いますが
あらためて自身の言語理解の低さを知らされるとともに、
「言葉」の大切さにも気付かされた思いでした。 平成二十三年は一月に入ると、当地ではまとまった雪が降り、
境内一面が真っ白になりました。
せめて車庫の前の雪かきでもしようかと、いやいや外に出ますと、
近くで近所の小学生たちが騒いでいました。
何があったのかとその様子を眺めていますと、彼らは雪玉投げをしたり、
倒れこんで埋まってみたり、布団に寝るようにして空を眺めたりと、
雪の中、友達同士で遊んでいます。
しかも大声を出し笑いながら、みんな楽しんでいるようでした。
見つかると、巻き込まれそうでしたので、私はそっと家に入りましたが、
その光景を通して、冬にも寒さと暖かさがあることを教わった思いでした。 平成23年はご本山・本願寺にて「親鸞聖人750回大遠忌法要」が勤まる年です。
全国の門徒方が親鸞様を慕ってご本山・本願寺にお参りされることでしょう。
当寺からも10月に団体で参拝する予定です。
一方で、現代社会は繋がりが薄れているといわれますが
この750年も繋がりのある法要には何があるのでしょうか。
探るところに親鸞様の魅力、人生における喜びもみえてきそうです。
私としては、この年をこれまで以上に勝れたご縁である年といただいて
一日一日、無駄にしないよう心がけ、
見聞を広め、学びを深める記念の一年としていきたいと思います。
さて、今から何をしましょうか。
一日、一年あっという間です。
むなしい人生には、したくありません。 本日、平成22年12月23日
年始は、はや年末となりました
そして年末も、年始となりつつあります
始めが終わりとなり終わりが始まりになる
何か不思議な思いがします。
考えてみると元旦の日の出もどこかの日の入りであり
日の入りがどこかの日の出であったり
「おぎゃー」と生まれたときも
死んだと思って「おぎゃー」と口に出たのかもしれません
ではこのたびの死を迎えるときはどうなるのでしょうか
涅槃図にあるお釈迦様の穏やかな姿をみると
このたびの死にも始まりがあるように感じます
そう学んだ私たちの先人がたは
葬儀にて「生前は・・・」と仰るようになったのでしょう
「生前」とは「生まれる前」という意味だそうです 「無常」の中で
「今」の積み重ねが
「今日」を築き
「今日」の積み重ねが
「一年」を築く
そして「一年」の積み重ねが
「一生」となるのだから
「今」こうしちゃいられないと
少しは思えるようになりたい 「振り返ってみると
失敗、まちがい、あと戻り
いろいろあったりするけれど
無駄だったということは
不思議とひとつもありません」
私の先輩の言葉ですが
「さはりおほきに徳おほし」と仰る
親鸞様に学んだ言葉だそうです。 最近法律関係のTVCMやTV番組などが目に付きます
それに伴い法律関係者の活躍も多くみられ
契約書や取り扱い説明書なども分厚くなっているような
気がします
これからは訴訟などが多くなっていくのでしょうか
その良し悪しはもちろん別の話ですが
本質を見失い責めることばかりを得意とする思考回路には
おちいりたくないように思います 人生が「生老病死」と気づかれたお釈迦様の
「問い」と「答え」が仏教に込められているとすれば
その「問い」も持たないで暮らしている私に
「答え」も響いてはきません
それは「仏教は難しい」「わからない」という発言にも
通じるように思います
「老いとは?」「病むとは?」「死とは?」「苦とは?」
「雨はどこから来てどこに行くのか?」「2010年とは?」
「葬儀の時にはなぜ黒いネクタイをしているのか?」
「お墓とは?」「お寺とは?」「本当に大事なものとは?」
「余命とは?」「今しておきたいことは?」・・・
普段から「問い」を大事にしたいと思う、今日このごろです 季節が移り変わるとお寺の境内の景色も変わります
特に、けやきの葉は印象的で
春に芽を吹き、新緑から色を変え、秋になれば赤くなり
冬を迎えるころには土に落ちていき
今度は栄養となって木を支えています
そんな様子を見ていると、人の生死の切れ目も
みえなくなりそうです
仏様の世界が「はかりなし」「きわもなし」とは、親鸞様のお示しです ご命日のお勤めに参った先で、お茶飲み話をしていると。
昔は使った紙は「トイレットペーパー」や、切り裂いて「はたき」、
最後は燃やして「灰」にして、畑にまいて糧にしたという話を聞きました。
さらには「馬糞も拾ってきて肥料にしたもんだ」「ゴミなんてなかった」
と90歳を越えた女性は教えて下さいます。
捨てるものはないという生活と、多くのものを捨てる生活。
昔と現代社会とでは、「価値観」に大きな違いがあるようです。
そこで思ったのですが。
「ゴミ箱」とはいつ頃から存在するようになったのでしょうか?
聞いてみますと、意外にも皆さんが「いつの間にか」と仰います。
ものごとの「価値」を「いつの間にか」見失ったときに、
ものごとに「ゴミ」と名づけ、「ゴミ箱」は増えたのかもしれません。
私は何をゴミとしているか、「価値観」と「ゴミ箱の中身」が問われるように思います。 この文を、今わたしが一人で書いています。
そしてこの文を、ありがたいことに今あなたが読んで下さっています。
時間も場所も違いますが。
時を越え、空間を越え、繋がっています。
そう知らされると、一人でいても、一人ではないように感じてきます。
狭い世界と広い世界。
お釈迦様が説かれた仏教に、「縁起」という教えがあります。
何事も、思いもよらない繋がりの中で存在している事に、気づかせて下さる教えです。
聞き学ぶところに、より世界も広がり、人生の味わいも深まるように思います。
2010年8月16日 蝉が鳴く暑い夏の夜の寺務室にて