親鸞聖人 扇屋渋々宿 御旧跡
浄善寺の門前には「親鸞聖人御旧跡」の石碑が建立する地があります。
この地は、西暦1207(承元元)年の「承元の法難」で京都より越後国府(上越市国府)に御流罪となられた親鸞聖人が、旅の途中に一夜の宿をとられ、お念仏のみ教えを説かれた地として伝えられます。
寺伝によりますと、聖人が当地柿崎にたどり着かれたのは冬の夕暮れ。
一軒の家(扇屋)に、宿を求められます。しかし、扇屋夫婦が邪見の者であり、なんと杖を振りかざして断わってしまわれます。
聖人は夫婦に、この出遇いも仏縁である事を話され、軒下にて雪を褥に、石を枕にされお体を休められます。

「親鸞聖人御旧跡」の石碑

この地は、親鸞聖人が、旅の途中に一夜の宿をとられ、お念仏のみ教えを説かれた地として伝えられます。

その中にありながらも、聖人は阿弥陀様のご恩を感じお念仏を称えられたそうです。そしてお声を聞いていたのが扇屋夫婦でした。
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏をお称えされる聖人のお姿に、我が身をかえりみて、聖人を中に招き、教えをいただきます。
「無量のいのちである阿弥陀様がおられる事。阿弥陀様は罪を責める事なく、ただ『全てまかせなさい』とお救いを告げて下さること。」
阿弥陀様のお心を聞いた夫婦は、お念仏を喜ぶ身へと転じていかれます。
聖人は、扇屋夫婦も阿弥陀如来のお導きに出遇われたことを慶ばれ、
柿崎に 渋々 宿をかりけるに主の心熟柿(じゅくし)なりけり」と詠まれたといいます。

親鸞聖人 御旧跡

『扇屋渋々宿伝絵』

本山書状

親鸞聖人 御旧跡

『扇屋渋々宿伝絵』

扇屋渋々宿伝絵
翌朝、聖人は旅立たれます。
当山の『扇屋渋々宿伝絵』には、夫婦は川岸まで見送り、賜った御名号を両手で敬いながら、別れを惜しむ姿が描かれております。
その後、時を経て扇屋夫婦の家は僧庵となり、仏教を学ぶ道場へと発展し、『川越十字名号』『扇屋渋々宿伝絵』『御枕石』が安置されるようになります。
僧庵は戦後まで代々尼僧が居住し、「御旧跡三季講」という組織とともにお守りされ、多くの方々がお参りになられました。
現在は「親鸞聖人御旧跡」の石碑と門信徒寄贈の玉垣、昭和三十二年「本願寺 第二十三代宗主勝如上人御巡教」を記念に寄贈されました銅像(廣瀬精一氏寄贈)が 建立されるに至ります。

親鸞聖人 御旧跡

『扇屋渋々宿伝絵』

親鸞聖人御旧跡

親鸞聖人 御旧跡

『扇屋渋々宿伝絵』

親鸞聖人真向之御影